教科書問題の本質は何か

2005年5月17日 23時31分 | カテゴリー: 杉並と東京都の教育と教科書問題

「歴史をどう教えるか」でなく「世の中をどう見るか」

中学でどんな教科書を使ったか、私自身はまったくといっていいほど覚えていません。また、どういう教科書で学んだからどういう思想や能力を持った大人が出来上がる、などと短絡的に結びつけるのは意味がないとも思っています。でも「だから教科書はどんなものでもいい」とは決して思えません。

教科書採択に際して注目されている「歴史」の教科書について学習する会をもちました。講師は高校の社会科教師、尾形修一さん。以前は中学の教師でもあり、歴史が専門です。各社教科書を比較・対照しての尾形さんの分析で、扶桑社版が他社版と「相当変わっている」ことがよくわかりました。

江戸時代の「百姓一揆」にまったく触れない。原爆の死者数を載せない。南京虐殺事件は「注」で触れるだけの扱い。他社は触れていないのに扶桑社だけ大きく取り上げている事項、たとえば天皇に関わる神話。「武士道と忠義」「二宮尊徳と倹約」。「聖徳太子」の記述がバランスを欠くほどに多い……。

人名索引を比較すると、人物史観の特徴が歴然です。反戦運動に触れないため扶桑社だけ「幸徳秋水」は載せないなど、「近代日本の歩みに批判的な人物が排除され」、女性史を取り上げないかわり、女性の人名は「日本の伝統」を取り上げるための教材として利用している、と尾形さんは指摘します。

問題は、ただ変わっている、特異だということではありません。「人権と平和を求めた勇気ある先人の歩み」の無視、民衆への蔑視。支配者側の英知や能力は賞賛し、戦争の悲惨さを考えさせない方向性。……こういう歴史観から中学生が何を学ぶか、ということが一番の問題だと思うのです。

尾形さんの次の言葉が、問題の核心を突いています。だからこの問題をやり過ごすわけにはいかない、と改めて感じます。

★「歴史教科書をめぐる問題」は「歴史をどう教えるか」の問題ではなく、実は、「現代をどう理解するか」の「世の中の見方をめぐる争い」が本質である。