『マイ・バック・ページ』 みんなホンモノになりたかった時代

青春は終わるということ

映画『マイ・バック・ページ』に描かれた1969年から72年は、ベトナム戦争の泥沼化と呼応して、米国の反戦運動が文化運動に転化しつつ日本の若者の心をとらえ、学生たちがキャンパスを拠点に政治的運動を繰り広げていた、その最も熱かった時代の末期にあたります。高揚のピークは過ぎ、学生運動は新鮮さを失って先鋭化、過激化し、終幕がすぐそこまで来ていた時代です。

「自分の個性はいまの時代に合わない」、「生まれてくるのが早すぎた(遅すぎた)」と考える人はいつの時代にもいると思います。若い日の原作者、川本三郎は「もっと早く生まれてきたかった」と痛切に思っていたはずです。

気もちは闘争の現場に寄せているが大新聞社の傘下という安全地帯にいる自分が後ろめたく、その心の隙に入りこんだ、革命家を気取る左翼青年に全幅の信頼を寄せてしまい、やがて挫折のときを迎える主人公。

現在進行する時間軸にかみ合わない自分という存在を持て余しながら、不器用に、直球でジャーナリズムの仕事に挑む若者を、妻夫木聡がていねいに演じています。対照的に、時代の空気を巧みに利用し自己顕示に才能を発揮する「似非」運動家を演じる松山ケンイチの、何かが乗り移ったような演技にも、背中がぞくっとする思いを何度かしました。

学生運動のリーダーを演じた長塚圭史もふくめて、これ以外は考えられない配役を得て、この実在の事件をもとにした映画が語るもの。理想は壊れるということ。夢は破れ現実は厳しいということ。暴力で世界は変えられないということ。革命は人を殺すということ。青春は終わるということ。

松山ケンイチが「(事件を起こして)記事になれば僕たちはホンモノになれる」と言った、「ホンモノになる」という言葉。この時代のだれもがそれを思っていたわけですが、いまの人はどうでしょうか。

あのころ確かにああいう人たちがいた。そう思えるかどうかで、この作品の見え方が違ってくると思います。だからいまの若い世代の人にこの映画がどう見えるのか、とても興味があります。