小松久子のこれまでの歩み⑤ ~生活クラブとの出会い~

消費者グル―プの生活展「見直そう手づくりの食卓」 生活クラブのブースでは「もっと日本の米を食べよう」と訴えました 6/2ハーモニーまつり

6年間の米国生活に別れを告げ、1992年に保谷市(いまの西東京市)に移り住みました。そこで出会ったのが生活クラブです。この生協のことは以前PTA活動していたころの仲間からさんざん聞かされていて、入りたいとずっと思っていました。

 当時の生活クラブはスライス肉がないとか、イワシやサバは丸ごと冷凍なので自分でさばかなければならないとか、不便を強いる生協と言われましたが、米国生活でブロック肉を扱うのは慣れていたし、野菜がふぞろいなことや消費者を甘やかさないのはむしろ好ましく感じました。

 食べることで生産を支える。生産地を保持する。生産者のくらしを保障する。それが再生産につながる。消費から生まれたごみは地球に返す。または資源として生かす。地球に返せない・資源にならないものは使わない。つくらない。消費する材にこだわる。それを人と人が助け合い協力し合って実践する。

 そういう理念がいいなあ、と思います。これを100パーセント実践するのはきついかもしれないが、方向性はしっかり定めて、ぶれない範囲でしなやかに、こだわりを楽しむことができたらいい。

 3年後に杉並区に引っ越すことになったとき、6年生だった三男が「杉並区に生活クラブはあるの?ぼくたちの食べるものはどうなるんだよ!」と半泣きで訴えたほど、生活クラブは私たち家族の生活に浸透していました。以来18年間、この地域での生協活動が身体になじみ、今に至っています。

10年前からは、この活動を起点として始まった生活者ネットワークの政治活動に軸足を移していますが、そのベースは、人任せにしないで自分の頭で考え行動する、生活クラブの生協活動の延長にあります。また生活者ネット同様に生協活動から生まれた、地域福祉や食にかかわるいろいろな事業体が身近で活動していることが、私の政治活動の支えでもあるのです。