「子供」表記をおしつける人たちの真意は何か

2013年9月23日 23時46分 | カテゴリー: 子どもと人権, 憲法・平和・社会, 杉並と東京都の教育と教科書問題

9月15日、脱原発デモ@高円寺が終わって

都議会に来て以来気になってしかたがないこと。そのひとつは「子供」という表記です。教育庁所管の書類では、使い慣れ見慣れた「子ども」ではなく漢字二文字の「子供」という表記が使われているのが気になって、感覚的に受け入れがたく困っていました。 

ところが、文科省の公文書から「子ども」の表記を追放して「子供」に統一するのだという。都だけならまだしも、国まで一本化だなんて。この決定には不快感を抑えられません。 

なぜいやなのか。それは、漢字の「子供」を強制する人たちに共通する「ある主張」、というか「真意」が、とても気分を悪くさせ気持ちを暗くゆううつにさせるからです。こどもを格下、目下と見るその目線、主体でなく大人の添え物と扱う不遜、道徳観を圧しつけ抑えつけ従わせようとする圧力…などの臭いがプンプン。 

「子供」表記への統一を文科省があえて実行することが、道徳教育が強化され子どもの管理・強制が進行するいまの流れの延長上にあることは明らかです。 

杉並区議のとき、この「子ども」表記をめぐる戦いがあり、「子供」から「子ども」をとりもどすことができました(こちら)。そのときどんなにうれしかったか。 

子どもにかかわる活動をしている友人たちの中に「子供」を支持する人はいません。でも、ある人が「この流れはもう止められない。だからこんなことで戦って消耗するより、子どもは神さまの『お供え』、神さまからの『授かりもの』と解釈したほうがいいじゃないか」と言います。 

プレイパーク活動で知られた、徹底的に子どもの側に立つ人の言葉だけに、尊重したいとは思いますが、でもいまの「子ども」表記が長い運動を経て少しずつ浸透し民主的に広がって、ようやく公文書や新聞などで一般化するところまで到達したのに、それを政治的に圧しつける、というやりかたで壊そうとすることへの嫌悪感はどうしようもないものがあります。