オペラ界の鬼才が『フィデリオ』に込めた政治的メッセージ

2015年8月19日 09時55分 | カテゴリー: 憲法・平和・社会, 映画・オペラ・おたのしみ

オペラの舞台化にあたって、演出家が原作の設定を時間的・空間的に置き換えることは珍しくありません。原作に新たな魅力を発見する場合もあればイメージダウンとなることもあります。ザルツブルク音楽祭での『フィデリオ』では忍耐を強いられました。

 『フィデリオ』はベートーベン唯一のオペラですが、堅物といわれたこの人らしいというのか、勧善懲悪と正義を追及するあまりユーモアや人情の彩に乏しく、同時代のモーツァルトとは比べるのも気の毒なほど面白みのない話です。

 しかし楽聖といわれるベートーベンだけあって、楽曲のすばらしさは申し分ありません。この日は、今をときめく指揮者ハンス・ウェザー=メストの下でオケも歌手陣も一流揃い。音楽的にはみごとなアンサンブルを聴かせてくれました。

 ですが、鬼才クラウス・グートの演出にはついていけませんでした。明らかに映画『2001年宇宙の旅』から想を得たと思われる黒い直方体を「どうだ」とばかりに据えた舞台セットはいいとしても、作曲家の意図しない音声が場面転換ごとに挿入されるのはどうかと思いました。ベートーベンに失礼ではないですか。

 物語は、無実の罪で長らく収監されていた政治家を、フィデリオと名を変え男装した妻が献身的な救出作戦によって解放する、というものですが、最終幕で、この夫の描き方に、今日性をもたせようとした意図を感じました。

 暗黒の地下牢で監禁・抑圧され続けていた男にとって、突然目に飛び込んだ自然光はまぶしくてまともに見られず、心的外傷後ストレス障害らしい症状も現れている。ヨナス・カウフマン演じる男の風貌や衣装がまた、中東の紛争地のジャーナリストを思わせます。

 さらに、このオペラは最終場面で自由・開放を勝ち得た夫妻が手に手を取って喜び合う、となるのが一般的ですが、グート演出は違いました。めでたしめでたし、という展開にはしたくなかったのか、足のなえた夫がぐしゃっと倒れ、そのまま幕が下りてしまうのです。これはいま国際社会が抱えている中東問題の難しさを暗示しているのだ、と見るのはうがち過ぎでしょうか。 

いずれにせよ、オペラという芸術活動に政治的メッセージを託して悪いことはありません。とくに日本において、もっと行われてよいと思います。