奇跡のような児童養護施設です。全ての施設がこうだったらいいのに。何がというと、保育士が子どもに対して「あるがまま」の丸ごとを受け入れる存在として暮らしていること、でしょうか。そこに8年間カメラを持ち込んだドキュメンタリー映画『隣る人』には、やわらかい空気感までもが映しとられていると思います。
幼児から18歳までの子どもとスタッフみんなでご飯を食べる場面が何度か出てきます。保育士のマリコさんが台所で調理する場面も。手分けして盛り付け、熱いみそ汁を前に「いただきます」と声をそろえる場面で、なぜか涙が出て仕方ありませんでした。食べること=生きること、というメッセージが伝わってきて。
保育士は、朝登校する子どもたちを送り出し、家事もするし子どもの宿題もみれば、子どもと布団を敷き、その中で毎晩本を読んでやりもします。だって一緒に生活しているから。子どもには担当の保育士が就くことになっているのです。
ただし1対1ではなく子どもは複数。だから保育士の取り合いも生じる—。
実は先日、里親子支援の活動をしているNPO「アン基金」の会合に出て、米国在住で社会福祉や児童福祉の専門家、ヘネシー澄子理事長のお話を聴く機会がありました。そこで「愛着障がい」という言葉を改めて認識したところです。
何らかの事情で親と暮らせない施設の子どもは、「心的トラウマ」「愛着障がい」を抱えています。里親や養護施設はそういう子どもの「安心・安全な場所」として「いやし」を与える存在でありたい。子どもは生後3カ月から「愛着」がつくようになり、「愛着」の対象がいないと、その後心の障がいとなって残る—。
映画の中のマリコさんが言う「どんなむっちゃんも好き」という言葉。その絶対的な肯定。そういう愛着の対象がもてる、愛着関係が結べるような社会的養護のあり方を、政治はつくらなければ、と思います。