8月15日の記述もありました。24歳だった父は、陸軍軍曹として着任した2か月後、群馬県相生市で終戦をむかえました。その一部を抜き出すと(・・・は判読不能か省略箇所)——。
8月15日 水 晴
本日早朝より空襲警報あり・・・。天気晴朗の下、正午聖上陛下の詔書、御自らの御朗読ありとの報あり。敵のソ連参戦、原子爆弾の使用等に依る皇国未曾有の危機に際し、陛下御自ら詔書の・・・あり。一同威儀正して皇居に向ひ、謹みて詔書を拝誦す。・・・皇国三千年の歴史遂に・・・未だ精鋭にして訓練に訓練を重ねたる皇士護持の決死の念に燃ゆる幾百萬の・・・サイパン、沖縄に散華せし戦友、その死に臨み・・・建国の理想に・・・護国の鬼となる。・・・一億の同胞確勝の信念に燃へ、凡ゆる障碍を耐へ忍びつつ・・・本土決戦を控へ・・・
漢文調の文語体、熱烈な愛国・軍国用語が頻出の、憂いと詠嘆にみちた記述がえんえんと続きます。酔うと必ず軍歌を歌い、詩吟が趣味で8月の靖国参りを欠かさなかった父のメンタリティーが凝縮されているのを見ると、30年前の私だったら100歩引いてしまうか、恥ずかしさで頭に血がのぼり何をしていたかわかりません・・・。
でも今だからだいじょうぶ。日記を発見したのが今でよかった。
その後陣営整理、8月28日の離軍式をへて、30日には「超満員の電車なれば貨物車に入りて」父は東京の自宅に帰り着きます。9月は復員の報告に親戚を訪れたときの軍事議論、朝日に載った陸軍批判の記事についての感想・・・などが書かれ、文部省の終戦事務局の就職試験を受けるまででノートは終ります。
私の知る限り毎晩日記をつけていた父の習慣は、このときから始まったのかもしれません。その後の父の62年分の日記は、母の50年分の日記といっしょに、わが家の屋根裏にしまいました。いつかじっくり読んでみよう、と思っています。