冒頭シーンは広い居間のような室内での、女性数十人の悲しそうな顔のアップ。それは、同じ体験者たちのカウンセリングの場だとあとになってわかります。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの、紛争後10年くらいたったころ。
12歳の娘は、クラスの男子と取っ組み合いのけんかをするほど元気のいい、活発で利発な少女。父親がボスニア紛争で戦って死んだ「シャヒード(殉教者)」ということに誇りをもっています。シャヒードは英雄なのです。
母親は、昼は自宅でミシンを踏み、夜はナイトクラブで働いて娘との生活を支えていますが、娘の修学旅行の費用が払えないほどの貧しさ。夫がシャヒードだと証明する書類があれば旅費は免除されるのに、なぜか手続きをしない。
そのことと、過去に受けたショックがときおりよみがえり、ひとりでじっと耐えるしかないことが関係あるらしいことが暗示されます。混んだバスのなかで間近に立った男性の胸毛が目の前に迫り、逃げるようにバスから降りる場面もそう。
そしてついに、問い詰められて忌まわしい過去の秘密を娘にぶちまけるときがきて、誇りとアイデンティティーをずたずたにされた少女が髪をそり落としてしまったとき、恐ろしい行動に出るのではないかと想像してしまいました。
でも、胎内に宿ったのを呪っていた子が「世界中で一番美しいもの」と思えるような感動を運んで生まれてきたことをセラピストに告白したのち、映画は丸坊主になった少女が旅行に出発する場面を映し、母と娘の希望を見せて終ります。
大写しの多いカメラワークは監督が女性だからこそ、母親の心象に寄り添っていることの表れなのでしょう。同性のまなざしが優しい作品でした。