父の死のこと

いまごろ母と再会を喜んでいるかな

農体験しに南房総の田舎に来ていた早朝。入院中の父の急変を知らせる連絡が入って急ぎ帰京の支度を整えていたところ、2度目の電話が死亡を確認したことを伝えてきました。最初の電話のあとその日が22日だと気づき、父は今日のうちにきっと逝ってしまうだろうと思った、そのとおりになりました。

5年前に母を亡くしてからの父は、独りになったさびしさを率直に口にし、それなのに母の遺品を日記以外きれいに処分して、生前母が希望してかなわなかった新築マンションへの転居を83歳で敢行して孫との生活に入りました。

町会や老人会の役員を引き受け、70過ぎで独習したワープロを駆使して各種会合の書類作りや会報の編集を担当していましたが、腎不全のため人工透析治療を14年間続けた母にならうように同じ病気を患ってからは、医師の助言もあって地域の活動を縮小せざるを得なくなり、けれどそれを愚痴るでも病気を嘆くでもなく、週3日の通院生活をたんたんと送っていました。

闘病のつらさをいつも訴えていた母に比べなんと従順な患者だろうと不思議でしたが、医療の技術的進歩もあったにせよ、父にとっては母と同じ病気を引き受けることは苦痛でなかったのかもしれない、といまになって思うのです。

父の残した文書の中に、地域の会報への寄稿文として母への思慕をつづったものが出てきたからです。その母の命日が22日なのです。

新聞に投稿したらしい原稿も多数出てきました。父は投書魔だったようです。私はその血を多少は受け継いでいるのかもしれません。

今年春に老人会の50周年行事を会長としてやり遂げると、待っていたかのように他の病気を併発して長期入院生活に入りました。日一日と衰えが見てとれましたが、なぜか当人は元気になる意欲を失いませんでした。

そしておそらく眠っている間に、父は86年の人生を閉じました。まったく苦しがらずに大好きな母のもとへ行き、いまごろは再会を喜び合っているのでしょう。
写真 1期目の選挙の時、激励に来てくれた父と(2003年4月)