天野正子著『〈老いがい〉の時代』、政治的につくられた「老い」のイメージを疑う
高齢のかたと話していると、個性的な一人ひとりの個別的な問題を「高齢者問題」と丸めてとらえることは違うのでは、という思いが募ってきます。そのことを、ジェンダー問題の専門家で社会学者の天野正子さんも新著でくり返し述べています。
『<老いがい>の時代――日本映画に読む』は、映画について書いた本です。天野さんが映画好きだったとは知りませんでした。学生時代には池袋の名画上映館に通い詰めたそうです。
でも映画評論の本ではありません。日本映画に描かれた老人をとおして、この社会を考察する内容。タイトルの「老いがい」というのは著者の造語で、「老いへの向き合い方・意味づけ方」だといい、「多様な<老いがい>の世界を描く日本映画は、人生の新しい価値を創造している」と説きます。「生きがい」「死にがい」につながる概念としてこの言葉を考えたようです。
また、「高齢者」と呼ぶことは老人や老年の現実を見据える目を曇らせてしまう危険があるため「老人」という言葉にこだわりたい、と断っています。取り上げているのは、1952年の黒澤明『生きる』から2013年の池谷薫『先祖になる』まで、ドキュメンタリーもふくめて64作品。
著者の意識には、「『老いている状態』にすぎない老人を、直線的に『老人問題』にすりかえていく日本社会」に違和感があります。「老人問題対策」という社会的規定から解放されることで、人それぞれの生活史にもとづく「老い」の個別的な世界が切り拓かれる、という指摘に共感します。
当然、介護についても言及します。羽田澄子監督の1986年作『痴呆性老人の世界』を、「家族介護こそが理想」という伝統的な幻想を打ち砕いた点で画期的な記録映画、とし、痴呆性老人の存在を隠そうとする当時の時流に異議を申し立てた点でも斬新であった、と評価します。
豊田四郎監督が有吉佐和子の小説を映画化し「多くの人びとに『痴呆』の怖さを強く印象づけ、長生きすることへの不安を呼び起こ」した1973年『恍惚の人』からの時代の変化が明らかです。さらに著者は『痴呆性老人の世界』が、女性監督の誕生を促したという点で大きな役割を果たしたことにも、注目します。
時代の流れにそって、政治的につくられた「老い」のイメージを疑いつつ、メディアとしての映画をとらえる天野さんの視点が、もうひとつの映画の見方を教えてくれました。