オリンピック 中止の決断なぜできないか

3月25日、オリンピック聖火リレーが福島県のJヴィレッジからスタートしました。サッカーの関連施設、というより3.11大地震による原発事故後の対応拠点であり作業員たちの宿泊所となった場所です。「復興五輪」の象徴として最適の場所のはずでした。

たしかに、被災直後の無残な姿からは想像もできなかったような真新しく整備された道路や周囲の風景から「復興は進んだ」と見えますが、それは表向きのこと。放射能汚染土を詰めた黒い袋「フレコンバッグ」の保管場所を避けて聖火が通っただけのことです。

 

2016年9月、都民広場で開催された五輪関連イベント

そもそも安倍前首相が「(福島の放射能対策は)アンダーコントール」と世界に向けた大ウソによって引き寄せた東京五輪であったことからして、歓迎する気になれずにいましたが、多くの人の市民感覚からいってもマイナスイメージが積み重なり過ぎました。

国立競技場の建築デザインでは、一度決定した作品は未来からやってきた宇宙船のような外観でしたが、費用がかかりすぎるとしてコンペをやり直し、広報活動のベースともなるエンブレムのデザインは、盗作疑惑によりオリジナルを撤回しこちらも仕切り直さざるを得なくなりました。

東京の猛暑問題は、招致のための公式文書に「スポーツには理想的な温暖な気候」とこれまたウソの記載をしていたことから対策の必要を余儀なくされ、招致のため莫大な暗黒マネーが動いていたことが明るみに出たかと思えば、「世界一コンパクトな五輪」だったはずが費用的にも地理的にも拡大の一途をたどりました。

昨2020年、新型コロナパンデミックが起きてついに中止の決断の機会と確信しましたが「コロナを克服した証として」1年後に開催するのだと、1年で終息する根拠もないのに延期を決定し、中止の可能性を封印しました。

そして今年。開催まで半年を切った時点で海外からの観客は受け入れないとした時点で、世界中の国々から人びとが集まって平和を謳歌するスポーツの祭典という五輪の理念から外れています。アスリートにしても参加を辞退する国があっても不思議はなく、限られた参加国の選手同士で競い合うならオリンピックである必要がありません。

ここに至ってまだ中止の決断がなぜできないのか。不思議でなりません。