「認知症を伴った老女の演技」と、特殊メイク効果とあいまっての「いかに本人にそっくりか」がこの映画のすべて——と言い切る人がきっといるだろうなと思わせられるほど、M.ストリープの名人芸ともいうべき俳優力が際立つ映画です。
冒頭の、ドラッグストアで老女が牛乳を買うシーン。大中小のどれにするかちょっと迷い、小を選んでレジに並び、財布から小銭を出し…ているおばあさんが主人公とわかるのに若干時間がかかりましたが、次の瞬間から私はもう完全に「彼女」にひきつけられてしまいました。たったこれだけの場面で、「彼女」のこれまでの人生の厚み、人間の深みが醸し出されていたからです。
彼女は認知症を患っていて、物語は彼女が追想する過去の政治活動の日々と現在が交差します。若い日に「孤独に皿を洗うだけの主婦ではない、社会貢献がしたい」と政治を志し、文字通り男だけの社会での孤軍奮闘、やがて英国初の女性首相として栄光の頂点に立ち、さまざまな苦しい決断を下し、いつか挫折のときを迎え…。
財政状況がどん底にあった英国を、新自由主義にもとづく強硬な手腕で建て直したことがサッチャーの功績のひとつです。米国のレーガン大統領と歩調を合わせて世界経済をバブル景気に導き、そして貧富の差の拡大を招きました。
首相時代の「そっくりさん」ぶりは一見の価値があります。しかしこの映画の本当の価値は、認知症をきちんと描いたことだと思います。存命中の元首相をこういう形で描くことに英国では批判もあるそうです。
それについてM.ストリープが次のようにインタビューに答えています。「認知症の描写をまるで恥部を描いたようにいうことこそ問題視すべきです。…認知症はサッチャーの人生の一部なのです。私は彼女の真実を描くことに興味があった。彼女を貶めようとも、美化して持ちあげようとも思っていませんでした」。
あっぱれ、俳優魂! 蛇足ですがタイトルの「涙」はいりません。メリルもきっとそう言うと思う。原題は「The Iron Lady」、単に「鉄の女」です。