「在宅で死ぬ」時代の「看取り」ということ

自宅で老い、くらし続ける日常

 ミツバツツジ 西荻北4丁目で 4/5
 ミツバツツジ 西荻北4丁目で 4/5
3月末で終了したNHK朝のTVドラマ『カーネーション』を楽しみにみていました。洋裁を生涯の仕事とした主人公が少女時代、ミシンと出会い心ときめかす姿に、縫物が好きだった子どものころの自分を重ねました。

また朝ドラには珍しく70歳代以降の「老いてゆく主人公」の姿をリアルにとらえ、心境を描く映像に共感しました。最終場面は主人公が亡くなった病院の数年後の、車イスでテレビ画面をみる「あるおばあさん」の後姿で、それもまた印象的でした。

ところで最近「老い」を考えるとき、「看取り」について思うようになりました。

杉並区の施策として家族介護支援や、昨年設置された医療相談窓口など、高齢者の在宅でのくらしをサポートする在宅療養支援に力を入れていることに、注目しています。在宅、すなわち自分の家での「老い」の日常がそこにあります。

先日も「在宅医療推進フォーラム〜認知症患者と家族を支える在宅医療」と題する企画が区役所内で開かれました。杉並区と医師会、歯科医師会、薬剤師会との共催です。前半は精神科医による認知症に関する講演、後半は「認知症患者と家族を支える地域医療のネットワーク」についてのパネルディスカッション。「老いて自宅でくらし続ける」ことを地域で支える、それをみんなで考えるという、いい企画だったと思います。

区の施策はまだ十分とはいえないし、国の動きをみても介護保険の支出抑制の意味は否定できませんが、「施設から在宅へ」と大きく舵を切ったことは確かです。つまり「家で死ぬ」時代に入ったのだと思います。

私たちは長いこと、病院で死ぬことが当たり前でしたが、それ以前の時代のように「家で死ぬ」ようになることは、死が「見える」ところに近づくことです。これを肯定的にくらしに採り入れて、「家で看取る」ことの準備をする必要があるのだと思います。

家族が死ぬとどんなことがおきるのか。何をしなければならないのか。「看取る」ための学びが必要です。これからは学校に限らず、地域の資源を使って、社会教育として多様な形で「看取る」ことを学ぶ機会が求められると思います。