小松久子のこれまでの歩み② ~子どもの問題と出会う~
ベトナム戦争が泥沼化した70年代。学生の政治運動が空気のようにあらゆる場所を満たしていた時期を過ぎると、自分探しをしなければ1歩も前へ進めない、という強迫観念に押しつぶされそうでした。
戦争終結の報を聞いたのは、大学を辞めて入った劇団プークの旅公演で福岡を訪れていたとき。公演がはねた後、楽屋で祝杯をあげながら、次の日曜日に地元のお祭りに人形を持って飛び入り参加しようと話がまとまりました。急きょ、お祝いの横断幕やグッズをつくり、劇団の仲間たちと福岡のデモに参加しました。これが私にとっての初デモ。
2人目、3人目の息子が生まれたときはうれしくてたまりませんでした。2人目以降は子どもの何もかもがおもしろいのに、最初の子は子育てに苦しさがついてまわり、学校に行くようになってどんなに解放感を味わったことか。
ところがPTA活動をとおして学校にかかわる中で、その閉塞したしくみが見えるにつれ息苦しさが募り、PTAのおかしさ、学校のおかしさをなんとかしたい、と考えるようになりました。「登校拒否」という言葉が反社会的な響きをもって蔓延していたころです。この現象に対抗するように「もうひとつの」学校、オルターナティブスクールやフリースクールの運動が芽吹き始め、暗い世の中を照らす希望の星のように見えました。
登校拒否は子どもの抗議の声。叫び声を挙げなければならないほど子どもを取り巻く環境はひどいことになっている。――「子どもの問題」との出会いでした。知ってしまったら、もうお仕着せのPTAなんてできない。そう思って『3の1 PTAだより』というミニコミをつくることにしました。
やってみるとこれが楽しくて、編集会議といっては友人たち(今でいうママ友)と集まり、取材といっては講演会や学習会に出かけていき、ミニコミは我ながらとてもよくできたので、3年1組だけでなくその辺の人に配って回り、またいろんな機会に知り合った人に郵送しました。
そしてこの活動をとおして、子どもの問題に関心のある人は食べ物にこだわり、環境にもこだわる、という発見をしました。この発見にはのちに、「さらに原発にもこだわる」という項目が加わって書き換えられることになるのですが。