小松久子のこれまでの歩み③ ~ニューヨークのボランティア生活~
1986年5月、連れ合いの赴任により家族5人でニューヨークに引っ越しました。チェルノブイリ原発事故がおきた2週間後です。都心から電車で40分の郊外、ハリソンという町。町の北側はユダヤ系、南側はイタリア系の移民でできたコミュニティーに、日本人家族も約70世帯が住んでいました。
9歳と6歳の息子は地元の公立小学校に入り、クラスに日本人の子がいてくれたおかげで、言葉がわからなくても学校生活に慣れていきました。町では日本人家族がその後も増えたので、3年間の時限事業として日本語と英語のバイリンガルクラスが設けられました。また低学年のクラスには母親がボランティアで授業の補助に入るなど、日本人コミュニティーとしての組織が必然的にできていきました。
私がその日本人家族会の代表を務めていたとき、親日派のイタリア人校長が定年退職のため、新しい校長を迎えることになりました。新校長は、応募してきた候補者4人の中から選ぶのだといい、教育委員会、職員組合、PTAも面接で選考を行うので参加してほしい、と私にも声がかかりました。
公立学校の校長をだれにするか親も面接して決める。さすが民主主義の国です。1回目の面接では教育委員会、職員組合、PTAの評価が割れたので2回目、3回目…と3者の評価が一致するまで面接と選考会議が行われました。私は日本人家族の代表としてそのたびに意見を求められ、「子どもに選ばせたい」、子どもに選ばれる人が一番ふさわしいと思う、といつも同じことを言いました。
町立図書館には日本語の本のコーナーがありました。おそらく町に住んでいた日本人が帰国の際に寄付していった本を並べただけの一角でしたが、ホームシックにかかりかけていた私には、一番居心地のいい場所でした。入り浸るうちに気がつくと、日本語図書の担当者のような存在になっていました。
日本人家族の増加に伴い寄付の額が増えたので、日本語の本のスペースは書棚の一角からまるまる全部にまで拡大し、新規購入に充てる予算も2倍の、年間2,000ドルにまで増額されました。どんな本を買うか、ボランティアの私に一任されました。私はニューヨーク市内の紀伊國屋書店からカタログを取り寄せ、自分の独断と偏見で選んだ好みの本を好きなだけ買えるという、いま考えると夢のようなポストをエンジョイしました。
その結果ハリソン図書館では、チェルノブイリ事故前・事故後の原発を考える日本語の本の充実が図られていきました。