本当の悪は平凡な人間の凡庸な悪  「ハンナ・アーレント」の哲学

実在したドイツ生まれのユダヤ人哲学者を主人公に据えた映画『ハンナ・アーレント』をみてきました。ナチによる弾圧から生き延びたハンナが、ニューヨークの大学で教鞭をとっていた時期、1960年にホロコースト加害者のアイヒマンが逮捕される場面から映画は始まります。

ハンナは彼の裁判を傍聴すると決め、名門雑誌『ニューヨーカー』の依頼に応じてレポートを執筆することにします。アイヒマンは、ナチ親衛隊員としてユダヤ人を強制収容所に移送する列車を動かした責任者です。彼の指示で大量殺人が行われたのだから、レポートは極悪人を糾弾するものになるはずでした。

ところが、傍聴席で見たアイヒマンは「ふつうの」人だった。そのことにハンナは衝撃を受けます。彼は命令に従っただけ。ただの役人。――そして、そのことを率直に「彼が20世紀最悪の犯罪者になったのは思考不能だったからだ」と書いた文章が『ニューヨーカー』に掲載されると、たちまち非難の標的にされます。

罪人の非道さを暴くのでなく、ありふれた凡人の小心さを「悪の凡庸さ」という言葉で表現し、さらにユダヤ人で構成された「評議会」がナチの下部組織として機能したことまで書いたために、同胞のユダヤ人からも激しいバッシングを受けることになりました。夫や友人が支えてくれはするものの、社会を相手に懸命に反論に立ち向かうハンナ。

ハンナはヘビースモーカーで、思索を深めるとき、思い出に浸るときはもちろん、原稿のタイプを打っているときもタバコを離しません。大学の講義のときでさえタバコを手にしつつ、「本当の悪は平凡な人間の行う悪です」と説き、満場の学生から拍手が贈られる場面に、ようやく救われる思いです。

平凡で、ふつうに穏やかで、おとなしい人の悪行にこそ、悪の本質があるということ。ハンナが99%の人を敵に回しながら導き出した哲学は、今の時代、すぐそこに存在します。たとえばヘイトスピーチ。嫌悪を扇動する人種差別意識に付和雷同する言動は、思考停止状態であればやすやすと拡散してしまいます。

またたとえば、婚外子差別。民族差別。生れ出てきた時点ですでに子どもが差別にさらされる理不尽は、倫理観という衣をまとった凡庸な悪か、ちいさな悪意から生じます。では秘密保護法はどうか。

特定秘密保護法そのものは巨大な悪という感じがしますが施行するのは人。ここにも「凡庸な悪」がたくさん、空気のようにそこらじゅうを満たす予感がします。