キルギスに降りてきたケンタウロス「馬を放つ」
馬にまたがった男が両手を掲げ草原を疾走する――。このポスターは映画の最初の方に一瞬出てくる場面です。原題の「ケンタウロス」そのものですが作品の本質が凝縮されています。男は他人の家から馬を「逃がすために」盗み、疾走しているのです。
空を仰ぐような仕草は、企みに成功し緊張を解かれた安心感か、馬を開放する前の高揚感か。キルギスの雄大な自然と一体化して「自由の賛歌」が表現された見事なシーンだと思います。
男は50歳過ぎて妻子をもち、妻はろうあ者、幼い息子も言葉に遅れがあるようですが家族3人の暮らしは貧しくも平穏です。彼が馬泥棒の常習犯であることを除けば。
妻のコミュニケーション手段は手話と筆談で、筆談相手に「ロシア語で書いて」と要求していたことからすると、妻のベース言語はロシア語のようです。ということは日常の会話相手である男もロシア語を解すると思われ、このあたりの地理・言語的事情が私にはよくわかりません。
イスラム教徒が町の中に増えていることを表す場面もあり、物語の中には当事国の人なら感じ取れるメッセージが託されているのかもしれません。
監督の映画に対する思いにも特別のものがあるようで、男がむかし映写技師をしていたことや、家に映写機があること、男に思いを寄せる女性とふたりで映画の話をする場面などに、それが感じ取れます。
制作国はキルギス、フランス、ドイツ、オランダ、日本の5か国。でも物語は、キルギスの土着に根ざし遊牧民を祖先に持つキルギス民族文化への誇りと郷愁にあふれています。息子に「昔々、馬は人間の翼だった」とキルギスの古い言い伝えを説く男。
夜ごと危険を冒して他人の家に忍び込み馬(=人間の翼)を連れ出す。売って換金するわけでも自分のものにするわけでもなく、野に放つために。しかしある日ついに捕えられ、信念にもとづいた行為であること、伝統を取り戻そうとする切ない心情を涙ながらに吐露する――。
これは寓話なのだと思います。文明が進んだ現代に、馬とともにあった暮らしを熱望し命がけで実力行使におよんだケンタウロスは、悠久の歴史を伝える使者として神話の世界からやってきたのかもしれません。そしてきっとまた元の世界へ帰って行ったのでしょう。