あのとき座ったあなたを忘れない

卒業式のS君へ

S君といいましたね、O中学の卒業式で、「国歌斉唱」のとき、すっとあなたが腰を下ろしたのは私の席からよく見えました。前から決めてあったのでしょうね。でも級友たちに促されて立ち上がったあなたは、顔をゆがめていました。

両サイドの級友たちの訴えるような、懇願するような表情も、見てとれました。そしてあなたが頭を大きく傾けて困惑しているようすだったのも。・・・あなたは迷い、けっきょく起立しました。その間約3秒か、せいぜい5秒。

歌が始まって、あなたの口元は私と同じく動いていませんでした。歌の間、ほかの人たちと同じようにしっかり前を向いて、けれども口はつぐんだままでした。私は、あなたが何を考えているのだろう、とずっと想像していました。

後悔しているだろうか、人に言われて立ったこと。自分の意志と裏腹に立たされたことを恨んでいるか。あるいはわずかの間座ったことを後悔したか。どうせ立つことになるなら最初から座るなんてしなければよかったと思ったか。それともほっとしているのか。立つことになってかえってよかったと思ったか。

あなたが座っていたのは前奏の2小節のあいだだけ。でも貴重な2小節でした。これだけは言っておきます。15歳のあなたが自分で決めて座ったことは間違っていないし、人から言われて立ったことも意気地なしではないです。

あなたは胸を張って、そしてこのときのことは決して忘れずに、これから何度でも繰り返し反芻して、自分を探したり、世の中の事柄を考えるときのヒントにしてほしいです。そして私も、あなたを忘れないでいようと思います。あなたがしたことで学べることがあるからです。

S君、あなたに会えてよかった。卒業おめでとう。