「社会の良心」を育てられないか

2008年元旦によせて

新しい年です。年頭に2年続けてここで同じことを書いた(「子どもが死なないまち」)ので、今年は別のことを書こうと思います。

昨年の日本の世相を表す文字は「偽」とされたように、食品の表示偽装、改ざん、責任逃れの偽証が相次ぎました。どれもひどい話ですが、この際「人間とはそういう生き物」だと知ったほうがいいと思うのです。

電力会社による原発事故のデータ改ざんもありました。年金記録のでたらめ管理、薬害がおきる原因にしてもそうですが嘘をつく、ごまかす、隠す・・・ことをせずにいられない、人間とは情けなく恥ずかしい生き物なんだということ。

でもそれだけかというと、そうではない。良心に従って正しいと思うことのために、自分ではなく誰かのために、リスクを負いながら尽力するのもまた人間です。

人間の良心をはぐくむように、「社会の良心を育てる」ことができないものか、と思います。それはおそらく健全な社会、自由でしかも犯罪がなく安心して暮らせる地域でなければならないし、基本的な生活が保障されていなければ無理。すなわち福祉に厚い社会、ということになるでしょう。

高福祉社会とは何だろう、と考えさせられたのが、年末に見た羽田澄子監督の『終りよければすべてよし』でした。終末期の医療の問題を提起したドキュメンタリー映画です。「すぎなみNPOのつどい」のなかでの上映会でした。

人生の終わりをどこでどのように迎えるのかは、その人の価値観によるというより社会の、政治の問題であることが突きつけられていました。社会の良心を形にすると、穏やかに死ねる場とそれを可能にする医療、そしてそれを支える高福祉社会に行き着くのではないか、と思わせられました。

今年生活者ネットは、市民に呼びかけて「ローカルマニフェスト」をつくろうとしています。この活動のなかで、福祉のありようなど具体的に描いていきたいと思います。